一つ前にメモった映画を見て、映画自体をめっちゃいいと思う感想も書くべきだろうけどそれよりも、
「主人公ミーボー」を眺めた現実の自分自身を見て痛切に感じることも吐き出しとこうと思ったら、分けたほうがいい気がしてわけた。
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・映画に対するどこかの感想で、「カウンターじゃないのが、」と言ってるのはその通りで、目的とかじゃなくただ没頭できるものを持ち続けられていること自体が羨ましい。根本的にカラになってしまうことがない(あってもどうにかなる)んじゃないかと思える、根源的なエネルギーなるものに泣きそうになる。
→自分自身ここ数年で特に「憂鬱」と向き合ってる感が強い(別に小学生とか幼い頃からずっと持ってるものだったけど)。大人になっていつか紛らわす方法もわかってくるものかと思ったけど、いわゆる「多くの社会人」から大きくずれた20代後半から今まで、不調の波がくるたびに抱えきれなくなりそうな時は幾度もあり、「現実感がない状態」はしょっちゅうである。
→(前にも書いた気がする)自分の年齢とか、好不調の波とか、ない能力云々とかからざっくりと、「一人で折り合いをつけていく未来」しか想像できないんだけど、そんなこんなを思う時になぜか思い出す動画がある。
(なんとなく池松壮亮を検索して見かけた動画だったはず。本人が飽きたって言い切ってるのと、動画後半で話してる感じも相まっておぼえてる。検索したら当時24歳らしい、すご)
→ぼっち人間からしても、その飽きる感じは今更ながらすごくわかる気がしてつらい。(いろんな新しい体験があるのはわかってても、)自分のある程度の好き嫌いは把握してるし、これまでの体験から無意識にでも予測はしてしまうし、どこまでいっても自分ひとりの内側に咀嚼させるしかないし。
パートナーとか、家族とか、「予測から開放してくれる」相手がいる幸せってのはあるんじゃないかと思う。
→世の中に「積極的ぼっち」はどれだけいるんだろうと、ふと思う。自分がどんな状態でも一人が好きで、積極的に選んできた人。どちらかといえば「消極的ぼっち」の人がほとんどじゃなかろうか。自分はそっち。余裕とか強さとかがなくて一人の方がまだマシ、という消極的選択を取り続けて慣れたぼっちである。
→→そんなこんなあれやこれやで、「憂鬱」が手強い昨今だけど、ミーボーのような部分がない自分も、周りの人のような楽しみはあるのかと夢想することはある。