「スポーツによってひねくれきらなかった」ことを思い出した。

改めてCMを乗っけておく。


動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting. | Nike

 

改めて見てて、全然文脈と関係ない気がするけど、小学校4年時を思い出してた。

自分がしたささいなこと(今でも、あの年を考えると、ささいだったじゃんと思うこと)で、おとなしい友人1人を除いた、クラス全員からはぶられ続けた1〜3年の約3年間。今でも思い出せるぐらいに長かった気がする。

そこから1歩抜け出せたのが、その時のサッカーと野球であり、スポーツだった。田舎のせまい世界の中では、いくらか運動神経が良かったのが幸いし、好きでやってたサッカーと親からやらされてた野球(当時は2つ比べると本当にやらされてたくらいの気分だった野球ファンすんません)で、チーム内で司令塔とレギュラーにはなれ、そうなる頃にはクラス内ではぶってた男子たちにも、認めざるをえなくなったのか、強制的にチーム内でコミュニケーションをとらされる中で「そんな悪いやつじゃないじゃん」となるタイミングがあったのか、まあ諸々が作用したようで6年時には男子とはだいぶ健全な仲になった。女子とはそうなる場がなかったこともあり、中学時代やら高校時代まで色々と尾を引いた汗。

基本ひねくれてる(というかズレてる?)けど、ひねくれきらなかった大きな要因の一つは、間違いなくスポーツだった。

親からは「人に興味を持て」と言われた少年時代で、「あんな奴らにどうやって興味持てっつうんだ」とマジで思った時期と、「きっかけさえあれば人って変わる時もあるんだ」と自分含めて感じた時期から、→めちゃくちゃ関心が強い部分と無関心な部分の差が激しい、図体はでかめのガキみたいなオッサンができあがりました。

 

と、CMで描かれている問題も年齢も実体験とはだいぶ違うけど、じぶんごととして思い出せるかけらは確実にあって、その意味でも自分としては良いCM。

あと、スポーツというか「好きなこと」に向きあうことの良さに、健全に「細かいことどーでもいいや」と無意識に浄化される瞬間はあると思っていて、その瞬間の心地よさを求めて何かを探し続けられるのかなとは、強く思う。

 

 

あと、「どうでもいい」で思い出したコラムがあって、今だに覚えているから引用しておこうと思う。

www.advertimes.com

事例に挙げたスピーチの中に共通して出てきた“different”という言葉が、決定的に重要だと思われる。他人とちがうこと、変であること(weird)を、社会がよいことと考えるか、悪いことと考えるか。はたまた、どっちでもいいじゃんそんなことと考えるか。
言うまでもなく3つ目がいちばん洗練されている。