「無意識」まで刷り込まれたものがいくつあるだろう。

・「全国高校サッカー選手権」決勝を見た。

よく言われる「サッカー(スポーツ)を通じて得たものは何でしたか?」という質問を自問し、それは細かく見ればたくさんあるだろうけど、現役から遠く離れたおっさんでも変わらず通底しているものは何だろう?と振り返れば、

『積み上げられたものへの無意識レベルのリスペクト』だと思う。

だからこそというか、実力主義とも違う、年上年下関係ない配慮的なものが良くも悪くも抜けない。

言動での「調子乗り・鼓舞・横柄」などの違いへの敏感さは、無駄に鋭いとも思う。前者2つは好ましいけど、後者への反発も妙に強い。

 

 

・年末年始に帰省して、改めて実家の「オチのなさ」を痛感した。苦笑

上京してきた芸能人がバラエティ番組で「オチをつける文化なんて地元になかった」と戦々恐々しているのを見て、秋田にもまぁなかったなと思い出していた。もちろんお喋りなやつもたくさんいたけど、周り全体のベースにオチはめちゃ少なかったはず。秋田人と大阪人の家庭を覗いてみたい。笑

 

・それと上京前の実家では、両親はよく口喧嘩が多発し、その場に意識を持ってくのが疲れるから、①部屋に戻る②手元のゲーム等に集中する③(高校ぐらい図体がデカくなったら)俺が意識的にキレて口喧嘩を強制終了・黙らせる、みたいなことをしていた。「よく今まで離婚しなかったな」という文言を、母からよく笑い話半分愚痴半分で聞く。

そのあたりからなのか、人が周りにいる時の意識無意識のいい塩梅みたいなのが今でも難しく、マジで話聞いてない時と妙に集中して聞いてる時の差が激しい気がする。

親には「人に興味を持ちなさい」とよく注意されてきたけど、「ニュートラルに居続けたい場じゃないことが多すぎただろ」と、子供としては思う。「なんでそっちの喧嘩でこっちが疲れなきゃいけないんだ」と思ってた。子供の無意識レベルの有り様には、家庭の雰囲気はどこまでも残り続けるんだろうと、少し悲しくも納得せざるをえない。

恋愛ごとを想像できない昨今ですが、そういう両親を見たり、数少ない恋愛体験からすると、「メンタルの安定した女性」というのが1番魅力的だと痛感している。相手のメンタルの有り様には、こちらの有り様が大きく関係するので、肉体が安定してない俺が言えることは無さすぎるけど。泣